その日は特にすることもなく、のんびりしようかと休憩室に行くと、千早がコーヒーを淹れていた。
つい先日、事務所に最新式のコーヒーメーカーが導入され、ボタン一つでコーヒーが飲めるようになったが、
千早は以前から置いてあったサイフォンでコーヒーを入れていた。
フラスコから火を外して消すと、こちらをちらりと見て、2人分ありますから、と言った。
私は窓の近くの椅子に座り、彼女がコーヒーをカップに注ぐ様子を黙って見ていた。
「どうぞ」
「ありがとう」
千早は一口飲んだ後、テーブルに置かれていた小さいカタログを広げて読み始めた。
私は砂糖とミルクを入れようか入れまいかひとしきり悩み、結局カップを両手で包み込んだまま、
コーヒーから立ち上る湯気をぼんやりと眺めていた。
飽きて窓の方へ視線を移すと、空は灰色のような、水色のような、何とも言えない色で、
晴れているのか曇っているのかは分からなかった。
回した首を戻し、またぼんやりしていると、視界の端で千早がカタログを閉じるのが見えた。
「なぁ、千早」
「なんですか」
「コーヒーってすっぱいよな」
「すっぱい?苦いの間違いでは?」
「世間的にはそうだけど、俺としてはすっぱいんだよ」
「不思議ですね」
「不思議だ」
不思議ですねと返されたものの、千早はそれ程不思議がっているようには見えなかった。
まず何より、俺と話している間ずっと、壁にかかっているホワイトボードの予定表を眺めていて、
上の空の様だった。
会話が続きそうになかったため、観念してコーヒーを口の前まで運んだ。
ほとんど冷めていたが、まだほんのり温かく、息を吸うと爽やかな南国の香りがした。
もしかしたらすっぱくないかもしれない。
一口口に含んでゆっくり飲んでみると、予想していたよりすっぱくはなかった。
それよりも、何か大事なものを逃したような味がした。
神妙な表情の私を見て、
「コーヒーは淹れたてがおいしいんです」
と、千早は言った。